理想郷



久しぶりの切嗣〈きりつぐ〉さんです。

正義の味方になりたくて
世界を救いたくて
聖杯戦争において
勝利をおさめようとした主人公の切嗣さんですが
なにぶんにも手段を択ばなかったので
外から見たら外道です。

聖杯戦争に勝って聖杯を手に入れたら
どんな望みも叶う・・・という設定で
行われた聖杯戦争ですけれども
聖杯を手に入れても世界は平和になりませんでした。

聖杯が欲望を成就する道具であっても
人々を幸せにするものではないと知った時に
自らの手で聖杯を破壊します。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

世界の平和のために理想のために
己を捨ててしまう人というものはかなり厄介なものです。

目論見の向うに悲惨な結論が出たら
切嗣は自らの手でもっとも大事なものを切り捨てますが
現実では犠牲を払ったぶん理想を切り捨てられる人はいません。

理想を追うことが人生のすべてであれば
おのが人生を肯定するために進むしかないなら
それは哀れであり、なおかつ残念な人です。
 


Fate Zeroの挿入歌は定期的に聴きたくなる曲です。

若き日の切嗣が育ての親を
ベルゼブルの充満する旅客機ごと破壊して
絶叫した場面の後に流れた曲です。

そういえば、かつて資本主義がどうしようもなかった時期
理想に燃えた若者は共産主義を掲げるしかなかったと
江崎道朗先生が言っていました。

戦前の保守主義はあまりにも愚かしく見えたから
国など滅ぼしてしまえと願ったのでしょうが
上部組織にいた人もいたのですから内部から民衆のために
改革を起こす道だってあったのです。

今の人を救わず未来の理想のために人身御供を求めたのが
かつてのコミンテルンでした。
きっと、そこが間違いだったのです。
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近衛文麿と昭和研究会(コミンテルン)

>楽さん お早うございます、ソロです。
>>戦前日本の共産主義の考え方
 先ず、「日本人は、常に高い向上心の社会に棲んで居る」と言う前提ですが、例えば、「日本人が挙げる敗戦責任者」のトップクラスに入る、であろう近衛文麿氏は、先帝陛下の甥(皇后陛下の弟の子)で、五摂家筆頭の名家の出に在りながら、若い頃から共産主義に傾倒して、東大在学中に転学して京都大学に入りますが、是は、当時日本のマルクス経済学の泰斗であった、河上肇が京大で教授をして居たから、と言う程の熱心さで、京大卒業後、彼の書いた物が治安維持法が取り締まる範囲に抵触すると言う事で、特高から華族には異例の厳重注意が下されて居ます。

 近衛氏が付き合って居た人々も、徳川、織田、前田、毛利と言った旧大名家の御曹司やお姫様が多かった事からも、日本の上層部の方々は、非常に意識が高かったのです。

 41歳と言う若さで無くなった父君近衛篤麿氏も政治活動を盛んにしておられ、文麿氏が12歳で家督を継いだ時の近衛家の財政状況は粗破産状態であった様です。

 然し金遣いは荒い上、女にだらしが無く、若くして結婚したのに、妾や愛人、庶子までいました。 本人の周囲からの評価は「優柔不断のインテリ」でしたが、180cmを超す長身と貴族の風貌、そして2つの帝大に入学したインテリと言う事で、国民には高い人気がありました。 亦、先帝陛下より10歳年上で、兄の様な関係であったとの事。

 日本が本格的に戦争に巻き込まれる前夜の昭和11~15年頃は、11年の2・26事件、12年の日華事変、14~15年のノモンハン事件で、軍部・政界が混乱していましたから、先帝陛下は、11年に国民に人気がある近衛氏に総理大臣の大命を降下しようとしますが、軍部の、特に東条英機との折り合いが悪かったので、辞退して居ます。 然し、軍と政治界の混乱は続き、昭和12年に内閣成立後、僅か3か月で倒れた林内閣の後を受けて、近衛文麿氏が、総理大臣に就任します。

 当時の日本は、大陸に出兵はして居ましたが、其れは、満州や租界地の治安を護る為と言って良かった。 治安維持が目的だから不拡大の方針は当然でしたが、蒋介石は、日本が蒋介石と孫文が建国した中華民国を正統なシナの国家として承認しない事に、業を煮やして居たので、石原莞爾が、日中首脳会談をお膳立てして、話し合いを持とうとしましたが、近衛はドタキャン、蒋介石も然る事乍ら、石原も激怒して、もし日本が敗戦の憂き目を見る様な話になれば、責任は近衛に在る、と予言しました。

 そして、その結果起こったのが、盧溝橋事件、国府北伐軍に拠る通州事件他数多の反日行動で、この事案を解決できなかった事で、昭和12年8月14日に、不穏さを増して居た状況に対応して、2万5千に増派して居た上海陸戦隊に、国府軍が3倍の7万5千で不意打ちを懸けて来て、日華事変が起こりました。

 オカシイのは、この国府軍の中には、ナチスドイツの軍事顧問団が居た事で、凡そ半年に亘って、国府軍兵士に欧州大戦(第一次世界大戦)で、フランスの大要塞マジノ線を破った、「塹壕戦」を教え込んでいた事実です。 つまり、前年度に起こった西安事件以来、盧溝橋事件や日華事変発生に至る迄の経緯は、全て、国府軍側、否、スターリンの張学良を通しての筋書であったと考える他は無い事です。

 既にこの時は、近衛の政策ブレーンには、「昭和研究会」なる、彼の尾崎秀美以下、コミンテルンのゾルゲに繋がる陰謀組織の存在があったわけですから、蒋介石が反日に転じた決定的な理由は、昭和11年12月に起こった、西安事件であっただろうと看られていますが、蒋介石を日華事変開戦に追い込んだのは、寧ろ、近衛総理の優柔不断さではなかったか。

 日本人に限らず、人は、状況が逼塞した状態が長く続くと、新しいものに飛びつき、未だ検証も経て居ないのに、容易く理想にして終う処がありますが、是は最も危険な傾向だと言えましょう。理論通りに世の中が回るのなら、戦争も貧困も病気にすらなりません。 然し、世にはそう言ったものが溢れて居るのですから、その最たる原因であるポピュリズムで、批判を盲目的に封殺して終うと、近衛文麿の様に失敗を放置してしまい、その綻びが、大きな破綻に結びついてしまうのです。

 蒋介石が率いる国府軍は、確かに評判の良くない軍隊で、シナ民衆から「強盗団」の様に恐れられていたのですから、そう言った勢力と手を結ぶ事は、余り気持ちの良いものでは無かったでしょう、其処に、コミンテルンンの指令を受けた、昭和研究会の「ささやき」があったのかもしれませんね。近衛は総理大臣を拝命する前に様々な大臣職を歴任して居ますが、この時にも、コミンテルンの謀略が実施されて居た可能性は高いですね。 

 戦前の共産主義について考えるに、日本共産党の表立った活動は、治安維持法=共産思想禁止法によって、封殺されて居たワケですが、肝心の中枢部が大きく蝕まれて居たと言う結果から言えば、日本共産党の活動は陽動に過ぎず、本命は、中枢部に食い込んだ昭和研究会の工作だったと言う事が分りますね。

No title

ソロさん

そのうちに近衞さんの本を読みます。

「近衞文麿 野望と挫折」という本を
父が買って読んでいましたので
借りてきて手元にあります。

もう、この人はダメ人間だと思いますね。

理想に燃えてマルキシズムに走ったエリートとは
江崎道朗先生の言葉です。
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