言ってみたのは、もちろん関白宣言のことです。
気の弱い男の歌です。
だって・・・・、こうなった訳ですから。
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追記 ・ 死について
人が死ぬという事は辛いのだろうか。
それはどれほどの辛さだろう。
身内の不幸を経験していない、わたしにしてみれば
それは想像で語るしかないし
友人の死にすら遭遇していない。
ただ、顔見知りの死に出会い、
人というものはいつしか居なくなるもんだということだけを知っている。
心の風穴を知らない者が他者に対して慰めの言葉をかける傲慢さと
それでも、なにか言わなければというジレンマと・・・・。
たぶん、みんな、そこへ逝くんです。
でも、そのことが信じられないんですが。
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こういうことでの気持的なものはその人の死生観によって変わりますね。
もし、死が全てで人間の存在価値がそこで忘れ去られる性質のものなら気楽にこんな歌は貼れませんでした。
でも、私の死生観は死は生と同一のような意味に捉えています。
死の先は誰も具体的にはわかりません。伝承や、そういったことを知る特殊な性質を持つ人たちの語ることで曖昧に理解するだけです。
でも、人間には論理的に死というものを捉えることも出来ます。
論理的といっても、推論であることには変わりませんが、死のあとにも人間は生きていると思えます。
死は、生であるとも言えるのではと思います。
要は、死という事象に出会ったとしてもそれは永遠の別れではなかろうということです。
今の日本には自殺者が、、どれほど多いことか・・・
残念ながらそういった死を選択した人たちには・・とても大きな償いをしなければならないようです。
人は、、人生は、どんなことがあろうと捨ててはならないと言うことなのでしょう。
あきらめてはいけないということなんでしょう・・。
でも、自然に、、一生懸命に生きて迎える死はむしろ、、悲しむべきではないと思うのです。
そうはいっても現実的な別れですからそれを無視せよとは言い難い。
でも、人間にとって生と死は自然なことだと受け止めることも必要と思います。
関白失脚は先ほど初めて聞きました。
youtubeのコメントに最後まで聞かなければいけないみたいなことが書いてありました。
もう一度聞こうかな、、。
杜若さん
死というのは、実は残された者の問題なんですよ。
だって、死んでしまうということは仕方がない現象ですから。
欠けてしまった現実は悲しいものですね。
ただ、別れてしまっただけの場合でもです。
難しいな、これは。
お二人とも、さっぱりとしてますね。
私は、結構ドロドロです(^.^)
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私の辛い別れは猫とでした。23年間の年月が、喪われたようで…
一人でいると涙が溢れてきて、ミーコの骨壺を開けて食べてしまいたい衝動に何度もかられました。今でもまだ骨壺を土に埋められず居間に置いてあります。
赤ちゃんを、23年間慈しんだ赤ちゃんを喪う悲しみです。
もう一つは、父が脳梗塞で倒れ危篤になった時。大嫌いな父で、喧嘩ばかりしていたのに、私は父が死んだら後追い自殺しそうなほどの勢いでした!
自分でも驚きました。
これから訪れる、たくさんの死に私は恐怖です。 命がいくつあっても足りない、と思う(-_-)
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だもん!
光紗さん
情が深いですね。
なんといいましょうか、冷静に。
去年のあの日、しゃくりあげることで漸く息をしていた。
ただ只管に黙って
我慢強く寄り添ってくれた友の体温が励ましとなった。
人の心に生を灯すのは
言葉ではなくきっと体温。
足知さん
よく、おこしくださいまいた。
優しい温もりを感じながら
生きる方向へ導かれるというのは
出会いの幸運ともいうべきものでしょう。
そういう友達が欲しいですね。
足知さん
たぶん、人生で一番大事なのはそういったことを実感することなんでしょうね。
私も以前病気で、体力が極限まで落ちたことがありました。
その時に感じたんですよね。
眠るのにも体力が必要だということが、、。
健康な時には判らないことが、意外と体が弱った時にその意味の大切さを知るんだと思うんです。